こんにちは。
自死遺族専門カウンセラーの向井はじめです。
身内が自殺して、誰からも自分の気持ちをわかってくれないと思い、仕事をやめることになったとき、
「どうか、前向きになってくださいね。」
と言われることがあります。
職場の人にもちろん悪気なんてないでしょうし、本人もできたらそうしたいとは思っているのですが、自死の苦しみの中にいる方が”前向きに”なんて考えれません。
世間では、前向き、プラス思考、ポジティブシンキング、このように考えることがいいこととされ、後ろ向き、マイナス思考、ネガティブシンキングが悪いことと考えられがちですが、実はそうではありません。
今日は、「無理なプラス思考があなたをダメにする理由」というテーマでお話します。
安易なプラス思考信仰の落とし穴
悲しみにくれていると、周りから、
「もう終わったことだし、前向きになろうよ。」
「これからどうにでもなるでしょう。」と、
言われることがあります。
すべての遺族がそうではありませんが、そのような言葉を聞くと、
中にはなんとも言えない気持ちになる方もいます。
確かに、客観的にみれば、「前向きに考えろ」というアドバイスは仰るとおりなのかもしれません。
そして、本人もできることなら、「前向きに考えたい」とも思っています。
ですが、それでは腑に落ちない”何か”があるのです。
ときには逃げも必要
目の前の課題が大きすぎる場合、ときには逃げも必要です。
なぜなら、目の前の大きな問題をクリアしようと思ったとき、遺族には超えなければいけない壁がいくつもあります。
大切な人の「死」を受け入れ、「自殺」を受け入れ、「自分」を受け入れ、「他人」を受け入れる。
そのようなプロセスを経て、ようやくクリアすることができます。
そして、この「自殺」を受け入れるというところが、非常に厄介なのです。
世間的には、「自殺はしてはいけないこと」とされています。
ですが、このタブーすらも本人の中で昇華しないとこの壁は越えることはできません。
もちろん「自殺」を受け入れるとは、自殺を勧めるということでもなく、自殺はいけないことだと禁止することでもありません。
そうではなく、ただ自殺を出来事として客観的に捉え、そこにいいも悪いもないということを腑に落とすことです。
つまり、自殺はしないに越したことはない、ということをご自身の中で昇華することなのです。
社会のタブーを受け入れるというのは、今まで自分が信じてきた価値観を壊すことになりますので、快復の過程は容易な道のりではないということが想像できると思います。
あまりにも壁が高すぎると、
簡単に「そんなの超えていけるよ。」や
「誰かがやってくれるよ。」というアドバイスは安易な思考としかいいようがありません。
もちろん、安易にそのようにアドバイスしている方ばかりではないと思います。
ただ、登って怪我することもありますし、誰かが運んでくれるとも限りません。
最後には自分で登るしかないのですが、まずは本人が現実を直視しようと思わない限り、この壁は越えることはできません。
現実を直視しようとする機会を奪うな
僕は、安易に「前向きにね。」ということは、現実を直視しようとする機会を奪うことだと思っています。
本人が、「そうだ。私は大丈夫だ。大丈夫。大丈夫」と言い聞かせ、頭では納得しながらも、腑に落ちていない場合、そのときはいいかもしれませんが、やがて大きな課題となってその人にふりかかります。
そのときには、もはや何が自分を苦しめているのかがわからなくなっています。
ですので、そんなときは「前向きにね」と安易な言葉をかけるのではなく、その人が問題と向き合えるように、ただ見守ることが大事だと思います。
自殺問題は社会全体で考えて欲しい問題
結局のところ、自殺の問題は、本人が受け入れなければ、解決することはありません。
ですが、自殺はその人だけの問題だけではありません。
社会全体で抱える問題なのです。
日本の自殺者数は、警察の統計では毎年3万人近くいます。
ですが、WHOの基準で図ってみると、少なくとも約11万人とされています。
日本には年間15万人ほどの変死者がいて、WHOではその半分を自殺者としてカウントするからです。
また、年間18万人と計算する方もいます。
引用:本当の自殺者数は、年間18万人
そしてこれらのことは、18万人が自殺したと片付けるのではなく、
一人の人が自殺で命を絶っている事件が1年で18万回起こっているということです。
1年間に18万回起こっているとするなら、10年間で、悲劇がこの日本で約180万回起こっているということです。
そして、自殺で命を絶った人の周りには、家族や恋人、友達がいます。
もはや他人事ではありません。
社会全体で考えなければならないことだと僕は思います。
そのためにも、残された人たちが安心して心の課題を超えれるような環境をつくることが必要だと感じてなりません。